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2008年12月 アーカイブ

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師匠の死

12日に私の脚本の師匠、宮川一郎先生が亡くなった。
その日、私は大阪に仕事の打ち合わせで行っていたが、師匠の奥様から携帯に訃報の電話があり、急遽帰京。ご家族だけのお通夜と密葬に参加し、先生を荼毘にふした。
常々「死ぬのは恐くない」とおっしゃっていたし、「俺の葬式には感動的な弔辞を読むんだぞ」って酔うと必ず私に命じられたので、26日の本葬では、先生に誉められるような弔辞を読まなければと思っている。
師匠のことは、書き出すときりがないので・・・今日はここまでで・・・。

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今日と言う日。

今日は第二次世界大戦の開戦記念日だ。
私の父は開戦当時、アメリカのカリフォルニア大学バークレー校の大学院で、建築を学んでいた。
未明に真珠湾攻撃を受けたアメリカ軍は、その日の朝8時頃には、一部の日系人を捕虜に取った。父のような学生や医師になっている人など知識層だ。スパイになることを警戒してのことらしい。
まだ日本が真珠湾攻撃を行ったという情報も入っていないのに、父はいきなり訪れた軍部に「ちょっと来て下さい」と言うわれ、そのまま身柄を拘束さえてしまったそうだ。
しかし、その半年後、一般の日系人が送られた劣悪な砂漠の中の捕虜収容所とは違う、環境のいい施設で終戦まで過ごした。食料にも着るものにも不自由せず、雑誌から新聞まで情報も自由に手に入ったという。ただ、鉄条網で仕切られた敷地内を出ることは許されず、その屈辱に精神的バランスをくずす人もいたと言う。
その収容所には、真珠湾攻撃の特殊潜航艇で特別攻撃隊となり、瀕死の重傷でただ一人生き残った酒巻少尉も、父と同じ捕虜収容所にいた。
生き残ったことを恥じた酒巻少尉は何度も自殺をはかったというが、アメリカ育ちの父には「生きて虜囚の辱めをうけず」という価値観はなく、父は酒巻少尉のことを不思議に思って見つめていたらしい。
戦前のアメリカでの暮らしは、しばしば楽しげに語った父だったが、開戦の日からのことは多くを語らなかった。
もっとよく聞いておけばよかったと、今になって思う。
父が死んでから、その収容所のことを調べてみよと思ったが、何の資料も見つからなかった。クリントン政権の時、これまでの機密文書も様々公開されたが、日系人の捕虜収容所のことは、わからないことが未だに多い。
毎年12月8日になると、父と酒巻少尉のことを思い出す。
数十年前、日本とアメリカが戦争をしていたことも、ましてや真珠湾攻撃のことなんかまったく知らない若者が多いという時代だけれど・・・。
昭和史にあえて触れない教育というのも、骨がない。様々な意見があることを教えることも出来るだろうに。教育者の事なかれ主義が、子供の事なかれ主義を生んでいるのだと思う。昭和史に触れない教室のあり方が、そのことを物語っている。

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